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福島康記先生ご逝去 [研究室]

先代の教授が亡くなった。ご遺族は家族葬をご希望なさっていたし、震災による交通途絶状態は半端なものではなかった。にもかかわらず、先生とゆかりの深い岩手県からお二人が、2日がかりで参列された。私がいつ死んでもそこまでして駆けつけてくださる方はいらっしゃらないだろう。先生のご人徳が伺われる。

北海道(富良野)、岩手(盛岡)、三重、と東京以外の多くの地で足跡を残し、要領の良い人なら避けて通るような面倒なお仕事を厭わずお引き受けになり、苦闘され、不器用ゆえ無用の誤解も生みつつ、それは誠実さゆえいつしか解消されていったと仄聞する。

学生にとっても、お世辞にも気の利く先生とは言えなかった。少なくとも分かりやすい先生では無かった。学問的立場が必ずしも直線的に明快ではなく、意外と言っては失礼だが、懐の深さ、守備範囲の広さは、何度もお話を伺っているうちに少しずつ分かってくるたぐいのものであった。

講義は、初学の学生にとってはほとんど意味不明だが、ひたすらノートをとって、分からないところを別の文献で補い、構成し直してみると味がしみたお話だったということが分かることもあった。講義の裏を読んでやろうと邪心を起こし、論文を拝読しても難しすぎて意味不明であった。

昔は学生数が少なかったこともあり、ゼミの発表が先生のお気に召さないと「この文献を読んでもう一度やり直せ」。お気に召したらめしたで「君の提示した論点についてはこういう文献があるから、それを読んでもう少し深めて報告せよ」などということもあった。

酷いときには「コメントのしようがない」
の一言で終わることもあった。悪いなりにどこがいけないのかコメントするのが教育じゃないか、そりゃないよ。と思ったりした。

一度、ある報告書について論ぜよ、という宿題を与えられ、素直に読んで意味の通らないところを批判しまくった。それが先生の執筆された報告書であったというのが、同席された先輩諸氏の顔色で分かったのは報告が終わった後であった。先生は「いや、君の言うとおりだ」と、一介の院生の報告内容を、笑みすら浮かべて受け入れてくださった。

もちろん普段は苦言を呈されることが殆どで、一応卒業(修了)させてはいただいたものの、卒業できたという実感が全く無く、先生の短いコメントが宿題としてずっと胸につかえていた。紆余曲折の後、先生の苦言へのお答えが少しだけ見つかったという気がしたときには10年の歳月が経っていた。(f)

p.s.
 研究室のOBOGの震災後の消息は、連絡先のわかっている範囲の方々はみなさんご無事でした。
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